Woolfgathering
Woolfgathering
Twitter@ronin_gw ɑuqλ on Flickr Instagram@ronin_gw Photo gallery on Tumblr (Woolfgallery)
小夏日和
MacBook Air の輝度を測定してみた
Thursday afternoon
図.18 mrg3タンパク質の立体模型(嘘)
Windowsで2TB以上のストレージが正しい容量で認識されない時のためのメモ
"

 そう考えると、疑問が生じる。政治が都市運営のアートならば、なぜパリの街は汚いのに東京の街はこんなに美しいのか。パリでは日常的に略奪などの犯罪が起こっているのに、なぜ東京では暴動が起きないのか。アフリカの中流国家並みの政治家しかいない国が、なぜ世界3位の経済大国でいられるのか。

 私が思うに、日本人は自分たちの特異性を強く意識している。だから全員の利害に関わるときはきょうだいのように一致団結する。この集団はびっくりするほど完璧で、自ら運営していけるからリーダーなど必要ない。だがフクシマのような異常事態では違う。ここ一番というときに政治が政治らしく機能できなければ、「機械」もいずれは壊れるだろう。

"
こんなに政治家がダメでも日本が機能している理由
ラッカセイ
"

 日本においては長いこと、写真はカメラという機械を操る技術でした。今のように誰にでも写真が撮れるわけではなく、操作技術を知らなければ写すことができませんでした。そのために写真の教育は、一にも二にもカメラの扱い方の習得にあてられてきました。

 ところが今やほぼすべての人が携帯電話でデジタル写真を撮るようになり、いつでもどこでも写真を撮ってインターネットにすぐにアップロードできる時代です。誰でも自分が撮った写真を気軽に、手軽に、世界中の人に見てもらえる。それってすごいことだと思いませんか?
(中略)
 その結果、写真は驚くほど身近な存在となり、同時に写真に対する理解もどんどん深まっていきました――という具合になったわけでは残念ながらありません。 
 せっかくカメラの煩雑な操作から解放されたというのに、依然として多くの人が気にするのはピントが合っているか、ブレていないか、明るさは合っているかなどカメラの技術面であり、画素数をはじめとするスペックの話ばかりです。

 そうした現状を見るにつけ、もったいないなあと思うのです。写真は単に、「今日こんなものを食べたよ」「これカワイイ!」といった情報を手軽に伝えるためだけのものではないと思うんです。前著『たのしい写真』にも記したように、写真とは、もっと魅力的かつ奇妙な、そして時には不思議な曖昧さを味方につけたきわめて現代的なメディアだと思うのです。

"

ホンマタカシ ― 『たのしい写真3 ワークショップ篇』

写真を初めてやるような子にカメラの使い方ばかり教えても、写真をやる気になるのはそういった写真術に興味を持つ人で、その後に成長するかどうかをその人が持つセンスに任せてしまうことになる。
技術面で最低限必要なラインというのはあるけど、やっぱり写真の見方・読み方・考え方を知れた方が写真の世界に入ってくれる子が増えると思うんだよね。
そういうのをある程度体系化して、写真術の一領域として教えることができればうれしいんだけど、簡単なことじゃないし年々続けるのはもっと難しいと思う。